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ブックレビュー174冊目 ジャレド・ダイアモンド著 銃・病原菌・鉄

今回はジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」を読みました
読もうと思ったきっかけは、以前読んだサミュエル・ハンチントン著「文明の衝突
この本で、文明についてや人類学関係に興味を持った
その流れから著者の「文明崩壊」を読もうと考えた

すると、その本を出す以前に今回読んだ「銃・病原菌・鉄」などを出している事を知る
せっかくなので、著書の順序に合わせて読んでいく事にした

内容紹介を引用します

Amazon.co.jp
銃と軍馬―― 16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が
4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのは、
これらのためであった事実は知られている。

なぜ、アメリカ先住民は銃という武器を発明できなかったのか?
彼らが劣っていたからか?
ならば、2つの人種の故郷が反対であったなら、
アメリカ大陸からユーラシア大陸への侵攻というかたちになったのだろうか?
否、と著者は言う。

そして、その理由を98年度ピューリッツァー賞に輝いた本書で、
最後の氷河期が終わった1万3000年前からの人類史をひもときながら説明する。
はるか昔、同じような条件でスタートしたはずの人間が、
今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。

著者の答えは、地形や動植物相を含めた「環境」だ。
たとえば、密林で狩猟・採集生活をしている人々は、そこで生きるための豊かな知恵をもっている。
だが、これは外の世界では通用しない。
他文明を征服できるような技術が発達する条件は定住生活にあるのだ。
植物栽培や家畜の飼育で人口は増加し、余剰生産物が生まれる。

その結果、役人や軍人、技術者といった専門職が発生し、情報を伝達するための文字も発達していく。
つまり、ユーラシア大陸は栽培可能な植物、家畜化できる動物にもともと恵まれ、
さらに、地形的にも、他文明の技術を取り入れて利用できる交易路も確保されていたというわけだ。

また、家畜と接することで動物がもたらす伝染病に対する免疫力も発達していた。
南北アメリカ、オーストラリア、アフリカと決定的に違っていたのは、まさにこれらの要因だった。
本書のタイトルは、ヨーロッパ人が他民族と接触したときに「武器」になったものを表している。

著者は進化生物学者でカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部教授。
ニューギニアを中心とする長年のフィールドワークでも知られている。
地球上で人間の進む道がかくも異なったのはなぜか、
という壮大な謎を、生物学、言語学などの豊富な知識を駆使して説き明かす本書には、
ただただ圧倒される。(小林千枝子)

内容紹介
なぜ人類は五つの大陸で異なる発展をとげたのか。
分子生物学から言語学に至るまでの最新の知見を編み上げて人類史の壮大な謎に挑む。
ピュリッツァー賞受賞作。
朝日新聞ゼロ年代の50冊2000年~2009年に刊行された全ての本の第1位のに選定された名著。

評価は10段階中の7
上下巻であり、文量も多く読むのが大変であった
そして、考えさせられること、学べることが多い本だった

興味深いと思った箇所を引用しながら、雑談をします


p18 ニューギニア人のヤリとの会話
”彼はこう尋ねたのだ
「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、
私達ニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。
それはなぜだろうか?」

それは単純な質問だったが、核心をつく質問でもあった
平均的なニューギニア人の生活と平均的な欧米人との生活とは、依然として非常に大きな格差がある
このような格差は、世界のほかの地域でもみられる
これほど大きな不均衡が生まれるには、それなりの明確な要因があってしかるべきだろう

しかし、ヤリの素朴な疑問は、容易には答えらないものである
当時の私には答えられなかったし、それに対する解答は歴史家のあいだでも意見が分かれている
歴史家の中には、この疑問を問うことをやめてしまった人も居る
ヤリとのこの会話を交わしてから、私は人類の進化、歴史、言語などについて研究し、
その成果を発表してきた
本書において私は、ヤリの疑問に対する25年後の答えを、自分なりに書いてみようと思ったのである


プロローグでヤリの単純であるが、核心を付いた質問が投げかけられます
これに関しての解答が本書の内容となります


p20
”たしかに、現代世界の不均衡を生み出した直接の要因は、
西暦1500年時点における技術や政治構造の各大陸間の格差である
鋼鉄製の武器を持った帝国は、石器や木器で戦う部族を侵略し、征服して、滅ぼす事が出来たからである
では、何故世界は、西暦1500年の時点でそのようになっていたのだろうか

技術や政治構造は、紀元前1万1000年から西暦1500年のあいだに、
それぞれの大陸ごとに異なる経路をたどって発展した
まさにその結果が、西暦1500年の時点における技術や政治構造の不均衡をもたらしたのである


p22
”こうした過去の衝突の影響がいまなお見られるのは、政治・経済の分野だけではない
現代の言語にも影響は現れている
例えば、世界に現存している6000の言語の多くが、いま消滅の危機に瀕しているのだ
これは、過去数世紀のあいだに使用人口が急増した英語・中国語・ロシア語が、
多くの言語に代わって使われるようになったためである
このような現代世界が直面している問題はすべて、ヤリの発した疑問が示唆する、
人類社会の歴史が大陸によって異なる展開を見せたことを原因としている”

p35
我々は、西暦1500年の時点の人類社会の差異を、
生物学的に説明しようとする事は間違いであると確信している

しかし、正しい説明を知らされているわけではない
大半の人々は、人類社会の歴史に見られる大きなパターンについて、
詳細かつ説得力があり、納得できる説明を手にするまでは、
相変わらず生物学的差異に根拠を求める人種差別的な説明を信じ続けるかもしれない
私が本書を執筆する最大の理由はここにある


p35
”著書というものは、分厚い著書をたった一文で要約するように、ジャーナリストから求められる
本書についていえば、つぎのような要約となる
「歴史は、異なる人々によって異なる経緯をたどったが、
それは、人々のおかれた環境の差異によるものであって、人々の生物学的な差異によるものではない」



このようにプロローグにおいて、ヤリへの解答が述べられている
要約すれば、人種的な差ではなく、環境による違いが原因である
この後は、その原因について述べられていく

p55
”10万年前から5万年前の「大躍進」の時期に、
我々の祖先に画期的な変化が起こっているわけだが、そこには二つの大きな未解決の謎がある
ひとつは、何が引き金となって起こったのか
もうひとつは、どこでおこったのか、である

引き金について私は、自著「人間はどこまでチンパンジーなのか?」のなかで、
人類の喉頭が発話可能な構造となったことが大きいと指摘したが、
それは人間の創造性の大きな部分が言語能力に依存しているからである
学者によっては、
「大躍進」の時代に容量の拡大をともなわない機能的変化が人類の脳に起こり、
それが現代的な言語の使用を可能にしたと唱えるものもある”

確かに”言語能力”は、人間の創造性において必要なものだと考えます
これは、哲学者ウィトゲンシュタインが述べた
私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という言葉が当てはまります

暗黙知を除いて述べますが、
物事を認識し、それを表現する際には言語化が行われます
例えば、Aという出来事があったとします
言語を習得しているので、自動的にそのAの出来事を言語化し、認識をしようとします
これは日常的にごく当たり前に行われている事です

言語化する事で、記憶として保存する事も出来ます
この時、その出来事を映像として記憶しているという人も居ると思います
そういう記憶の仕方もあるでしょう

テレパシー(笑)が使えるという人は居ないと思いますので、
他人に情報を伝える、出力の際には言語化が行われます
そうすることで、Aという出来事を他人へと伝える事が出来ます

ちなみに言語がない場合、
ノンバーバルコミュニケーションという言葉ではない言語が用いられていたと考えます
これでも意思の疎通は出来ますが、効率においては言葉があるバーバルコミュニケーションの方が良い

そんな訳で、ノンバーバルコミュニケーションの言語なき時代のコミュニケーションから
言語も用いたバーバルコミュニケーションに変わっていた事で、
古代の人類は発展していったのだと思います

言葉が増える事で、物事に対しての認識も増加する
そして、効率良く他人とのコミュニケーションが行えるようになり、
物事に対しての意見交換が行われる
そんなこんなで、認識が増えたことで創造性も増加したのかなと考えます
以上、かなり端折って意見を述べましたw


p92
”さきに見たように、社会構成の複雑さの度合いも島ごとに異なっているが、
経済面と同様、チャタム諸島の環礁地帯においてもっとも単純で平等な社会が形成されている
ポリネシア本来の首長の伝統は、これらの島々においても受け継がれてきたが、
首長が外観的にそれとわかるようなものを身に付ける事はなかった

彼らも平民と同じように質素な小屋に住み、平民たちと同じように食物の採集や収集に従事していた
首長を他の人達と社会的に区別する習慣や、
首長の権力の増大が目立つのは、政治単位が大きく、人口密度の高い島においてのみ
である
この傾向は、とくにトンガやソシエテ諸島においても顕著であった”

今後もキーワードになりますが、”人口”という要素
あまり深く述べませんが、人口密度が高すぎる事は、
ネズミの過密飼育の実験にあるように、負の影響を与える恐れがあります
これはネズミの場合でありますが、人間の場合はどうなのだろうか・・


p96
”ポリネシアは、人間社会が環境によって多様化するという格好の例を与えてくれたが、
ここからいえるのは、ポリネシアの社会は環境の違いによって変化したのだから、
環境による多様化は起こりうる、ということだけである

つまり我々は、大陸においても同じような変化が起こったかを問わねばならない
そして、もし大陸で同じようなことが起こったのだとしたら、
それを引き起こした環境的要因が何であったか問わなければならない
また、その結果として、大陸社会がどのように多様化したかを問わねばならない”

そんな訳で、ポリネシアの例で人間社会が環境によって多様化する可能性が示されました
次にその環境要因について本書は述べていきます


p109 ピサロはなぜ勝利できたのか
”では、この比類なき対決に至る一連の出来事を、
因果の連鎖の一番最後の出来事から順に考えてみよう
将軍ピサロと肯定アタワルパがペルー北方の高知カハマルカで出会った時、
アタワルパには8万の兵士がいたが、ピサロにはたった60人の騎兵と106人の歩兵しかいなかった
それなのになぜ、ピサロ側がアタワルパの家臣の多くを殺し、彼を捕虜に出来たのか
ピサロよりもはるかに多くの兵士を擁していたアタワルパが逆にピサロを捉え、
殺すことにならなかったのはなぜか

要因
・ピサロ側の有利な武器
※インディをの武器棍棒では、負傷はさせても殺すには至らなかった
スペイン人は鉄の鎧や鎖帷子で身を守っていたからだ
・歩兵に対しての騎馬の利
・天然痘の流行による、内乱が起きたこと
(これにより、アタワルパはスペイン人とカハマルカで対峙する事になった)
・アタワルパを捕虜にする事で、指揮系統を完全に掌握したから
・ピサロの見え透いた罠にかかったから
(アタワルパがスペイン側の軍事力や意図についての情報を知らなかったから)”

ピサロといえば、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人
歴史の教科書で習ったなと感慨深いです
その当時は、このような経緯があった事を知らなかった

普通に考えれば、8万人VS騎兵60人と歩兵106人では勝負にならない
だが、歴史として少数のピサロが皇帝を捕虜にし、殺害して勝利を収めている
これの要因が本書のタイトルでもある「銃・病原菌・鉄」である


p112
”1700年代になると、アメリカ大陸や他の地域の先住民を侵略するヨーロッパ人は、
それまでの剣に代わって銃器を主たる武器とするようになった
たとえば、照準性能のよいマスケット銃を片手に、
1808年にフィジー島に上陸した英国の水平チャーリー・サベージは、
まさにサベージ(野蛮人)というその名にふさわしく、
たった一人でフィジーの権力をひっくり返してしまった

カヌーで川をカサブー村までさかのぼっていった彼は、
ピストルの弾が届く距離の村の囲いの外から無防備な村人めがけて発砲した
殺された村人はあまりにも多く、
生き残った者たちは死体を積み上げて、その後ろに隠れたほどである
村の横を流れる川は、死者の血で真っ赤に染まった
銃を持たない先住民に対する銃の威力を示すこの種の例は枚挙にいとまがない”

これは銃の優位性の例である
上記ではたった一人でありながら、銃があることで国をひっくり返す事が出来た
正直、驚きの例である

だが、考えてみれば、”無防備な村人”を狙っているので反撃の心配はない
有り体に言えば、虐殺である
無防備では力の前では為す術もない

本書で紹介されていた部族の例を簡単に述べれば、
豊かな農地を持った平和的な部族が存在した
その情報を聞きつけた、狩猟採集生活をしている部族はどうしたか?
彼らなりの正義を述べて、その部族を侵略した
そして、平和的な部族は無防備で抵抗をしなかった

その結果、多くの者が虐殺、奴隷化されその部族は消え去った
一般的な善悪で述べれば、侵略した部族が悪である
しかし、侵略した部族は彼らなりの正義(その部族は我が部族の奴隷となるべき存在である)
これを信じて行ったので、当然の事だと述べている
やはり、無防備による平和主義は理想でしかないと思う


p114
”したがって、アタワルパがカハマルカに居合わせたことは、
世界史の流れを変えた重要な出来事の一つである
世界史では、いくつかのポイントにおいて、
疫病に免疫のある人達がない人達に病気をうつしたことが、
その後の歴史の流れを決定的に変えてしまっている


天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、その他の伝染病によって、
ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ”

p115
断っておくが、疫病がヨーロッパ勢の勢力拡大を常に容易にしたといっているわけではない
疫病は、熱帯地域に移住するヨーロッパ人のさまたげにもなった
アフリカ、インド、東南アジア、ニューギニアなどでは、
マラリアや黄熱病などの病気が、
ヨーロッパ人がそれらの地域を植民地化するうえでの最大の障害だったのである”


この”病気”という要素、ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌で多くの先住民は死んでいった
後で引用するが、この”病気”という要素も興味深い


p118
”ありふれた言い方になるが、アタワルパやチャルクチマ、
そしてモンテスマをはじめとする数多くのアメリカ先住民の指導者たちが
ヨーロッパ人にだまされてしまったのは、
スペイン人に関する詳細な情報を得る事ができなかったからである

スペイン人が新大陸にやってくるまで、
新世界から旧世界を訪れた者が一人もおらず、
そのためヨーロッパ人に関する詳細な情報を得ることができなかったのである”

p119
”要するに、読み書きの出来たスペイン側は、
人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた
それとは対照的に、読み書きの出来なかったアタワルパ側は、
スペイン人自体に関する知識を持ちあわせていなかったし、
海外からの侵略者についての経験も持ちあわせていなかった

それまでの人類の歴史で、
どこかの民族がどこかの土地で同じような脅威にさらされたことについて
聞いたこともなければ読んだこともなかった
この経験の差が、ピサロに罠を仕掛けさせ、アタワルパをそこへはまり込ませたのである”

この”情報”という要素
知っていると知らないとでは大きな差がある
情報の大切さをこの例でも考えさせられた



p119
”結論をまとめると、ピサロが皇帝アタワルパを捕虜に出来た要因こそ、
まさにヨーロッパ人が新世界を植民地化できた直接の要因である
アメリカ先住民がヨーロッパを植民地化したのではなく、
ヨーロッパ人が神世界を植民地化したことの直接の要因がまさにそこにあったのである

ピサロを成功に導いた直接の要因は、
銃器・鉄製の武器、そして騎馬などに基づく軍事技術、ユーラシアの風土病、伝染病に対する免疫、
ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことである
本書のタイトル「銃・病原菌・鉄」は、
ヨーロッパ人が他の大陸を征服できた直接の要因を凝縮して表現したものである


上記が、ヨーロッパ人が他の大陸を征服出来た要因である
これも”環境”の差が原因である


p136
”考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を推定するのに炭素14年代測定法をもちいている
この測定法は、あらゆる生命体を構成する普遍的な原子のひとつである炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、生命体が死ぬと一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に変化する事を利用して、
遺物に残存している放射性炭素14の量を計算することで年代を求めるというものである”

この”炭素14年代測定法”というものは、聞いたことがあったが、どのようなものか知らなかった
おおまかに述べれば上記のようなものらしい


p165
”野生のアーモンドには数10個で致死量となる青酸カリに分解する性質のある物質が含まれている”

これは知りませんでした
この毒性のあるものを、人間は無毒なものへと変えて行った
作物の品種改良についての話は面白かった


p290
”この男性の話は、きわめて特殊なケースだと思われるかもしれないが、
じつは、動物の病気が人間に感染するという事実をよく示している例なのである
世間には、犬好きの人や猫好きの人が大勢いる
この男性患者のように、羊のことを肉欲的に愛する人はあまりいないだろうが、
プラトニックに犬や猫を愛する人は多い

我々の中には、ペットの動物から病気をもらってしまう人がいる
犠牲者の数は大人より子供のほうが多いかもしれない
動物から我々にうつる病原菌は、たんなる不快感を引き起こすたぐいのものが多い
しかし感染症の中には、
天然痘、インフルエンザ、結核、マラリア、ペスト、麻疹、コレラなどのように、
深刻な症状を引き起こすものもある

近代人の主要な死因に数えられるこれらの感染症は、
もともと動物がかかる病気だったが、いまでは人間だけが感染して動物は感染しない
人間の死因でいちばん多いのは病死である
そのため、病気が人類史の流れを決めた局面は多々ある”


この男性の例は想像にお任せしますw
ちなみに笑える?オチもありました

病院ではその男性の言葉が分からなかった、なので妻に通訳をしてもらっていた
医師が原因と思われる事に気付いた、それを確認する為に妻に追求するように頼んだ
すると、男性は妻の耳元でそれを告白した

次の瞬間、妻は逆上
周りの人が止める間もなく、病室にあった鉄製の花瓶で夫を殴打w
妻はその場を泣いて出て行った

その一撃で彼は一時的に心肺停止
医師の蘇生措置で一命は取り留めたらしい
だがその後の事は書かれていないので、分からないが・・・

上記の例は特殊なケースなので置いておきます
このように家畜(ペット)から病気が感染る事があります

思い返して見ると、「鳥インフルエンザ」などが騒がれていたなと思います
この病原菌が進化し、人間に感染するようになったら上記の病気のように危険なものになる
だから、騒がれていたんだなとしみじみ思います


p296
世代が代わるときに我々の遺伝子を変化させる自然選択も、
病原菌に対する防御メカニズムの一つであるが、これは作用するまでもっとも時間が掛かる

例えば、どの病気であろうと、他の人々にくらべて遺伝的に強い抵抗力を持っている人がいる
疫病が大流行したときでも、その病原菌に対する遺伝子を持っている人々は、
持っていない人々よりも生き残れる可能性が高い

ということは、歴史上、同じ病原菌に繰り返しさらされてきた民族は、
その病原菌に対する抵抗力を持った人々の割合が高い
そうした遺伝子を持たなかった不運な人々の多くは、
死んでしまって(自然淘汰されてしまって)、子孫を残せなかったからである



p299
”簡単に説明してしまえば、急速に広がり、
症状が急速に進む病気は、集団全体にたちどころに蔓延する
そして、感染者は、短期間のうちに死んでしまうか、
回復して抗体を持つようになるかのいずれかで、感染したままいつまでも生き続けることはない

そして、感染者の数の減少とともに、
人間の生体中でしか生きられない病原菌も、そのうち死滅してしまい、
それとともに大流行も収束してしまう
つぎの大流行は、抗体を持たない新生児がかかりやすい年齢に達し、
集団外部から新たな感染者が訪れるまで起こらないのである

この典型的な例が、フェロー諸島での麻疹の流行である
この太平洋の孤島では、1781年に麻疹が大流行した
そして、しばらくのあいだ一人も感染者が出ていない
しかし1841年になって、麻疹にかかった大工を乗せた船がデンマークからやってくると、
再び大流行し、3ヶ月のうちに(7782人いた)島民のほとんど全員が麻疹に感染したが、
それ以降は、つぎの流行まで麻疹にかかった島民は全くいない

研究によれば、麻疹のウイルスは、人口が50万人以下の集団でははびこり続けれらない
人口がそれより多い場合にのみ、
麻疹のウイルスは、居所を転々と変えながら集団内に潜伏しつづけ、
抗体を持たない人々の数がある程度に達したところで、再び同じ場所で流行するのである

フェロー諸島の例は、急性感染症の病原菌がはびこり続けるためには、
充分な数の人間が密集して住んでいる必要があることを示している
そうした病原菌は、自分達が死滅してしまう前に
、抗体を持たない多くの新生児が感染年齢に達する集団であって、
そうした新生児を繰り返し登場させる出生率を維持できる集団内でしか継続的に生存していけない
このため、麻疹などは、集団感染症として知られている”

p302
”農業の勃興によって、集団感染症はなぜ出現したのだろうか
すでに指摘したように、その理由の一つは、
農耕が支えられる人口密度と、狩猟採集が支えられる人口密度の差である”

p317
”病原菌が人類史上で果たした役割について考慮しながら、
この章のはじめでとりあげたヤリの問いかけに答えると、どうなるのだろうか
非ヨーロッパ人を征服したヨーロッパ人が、より優れた武器を持っていたことは事実である
より進歩した技術や、より発達した政治機構を持っていたことも間違いない
しかし、このことだけでは、少数のヨーロッパ人が、
圧倒的な数の先住民が暮らしていた南北アメリカ大陸やその他の地域に進出していき、
彼らにとってかわった事実は説明できない

そのような結果になったのは、
ヨーロッパ人が、家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌を、
とんでもない贈り物として、進出地域の先住民に渡したからだったのである



上記のように”病気”の見解は興味深かった
これを読んでいて思ったのだが、”細菌兵器”は凶悪なものになると感じた
それは、全ての人に感染し、即効性で死に至らしめる強力なものではなく
ヨーロッパ人の例に習い、配布者は感染しないが、相手は感染する類のものは恐ろしい

少し今の世の中を考えてみると、昔に比べて色々な場所に行きやすくなった
ということは、多くの病原菌を運びやすくなったともいえる
それでも、昔(本書の時代)のような病原菌の流行は無い
これは医学の進歩の面と免疫力の向上もあるのかなと考える

また、ふとSF的な話を思った
宇宙人が侵略してきた場合、本書のタイトルのような要素が絡んでくるかもしれないw
例えば、銃、相手側の圧倒的な兵器
病原菌、地球外のウイルス(笑)
鉄、高度な文明、未知の優れた素材的な

こんな敵が現れた場合、人類はどうするのか
先住民の歴史を踏まえた上ならば、対応が出来ると思いたい
以下、下巻に続く




p16
”文字は、発祥地から各地へと広がっていったが、それについても疑問はつきない
例えば、文字は、肥沃三日月地帯からエチオピアやアラビアに伝わっているが、
メキシコからアンデスには伝わっていない
それはなぜだろうか

文字は、模倣されて各地に広がったのだろうか
それとも、近隣の人々が文字を使っているのに刺激されて、自分達で発明したのだろうか
人々は、どのようにして、ひとつの言語を記述するための文字から、
別の異なる言語を記述するための文字を作りだしたのだろうか

こうした疑問は、人間の文化活動の産物である技術、宗教、食料生産の方法といったものが、
どのようにして誕生し普及していったのかを理解しようとするとき、必ずつきまとう疑問である”

p29
”世界に何種類もあるアルファベット文字も、
おおもとの発明は一度だけで、残りはすべて模倣であると思われる
したがって、ローマン・アルファベットも、
おおもとのアルファベット文字を起点に、
連鎖的に何度となく「実体の模倣」が繰り返されてきた結果できあがったものである

最初のアルファベット文字は、紀元前2000年から紀元前1000年のあいだに、
現代のシリアからシナイ半島あたりに暮らしていたセム語を話す人々とのあいだで誕生している
アルファベットは、過去にも存在していたものを含めて何百もあるが、
原形はこのセム語のアルファベットである
他のものは、「アイデアの模倣」によって考案されたアイルランドのオガム文字のような少数の例を除いて、
ほとんどが実体をそのまま模倣したか、少し修正して借用したものである”

この”文字”の由来というものも、興味深かった

p54 「必要は発明の母」ではなく、「発明は必要の母」
どんな発明でも、最初の雛形は、何かの役に立つほどの性能を示せないことが多い
その為、大衆の需要も乏しく、長期にわたって発明家だけのものでありつづけることが多い
カメラにしろ、タイプライターにしろ、テレビにしろ、最初に登場した時は、
高さが7フィートあったニコラウス・オットーの内燃機関に負けず劣らずの代物だった”

p56
功績が認められている発明家とは、
必要な技術を社会がちょうど受け入れられるようになったときに、
既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである

そして、ファイストスの円盤の記号の母型を完成させた人間の悲劇とは、
社会がまだそれを大規模に活用できない時代に、それを作り出してしまった悲劇なのである


p59
”中世以降の石油の精製については、19世紀の化学者たちが中間分留物が灯油として役立つことを発見した
しかし、もっとも揮発性の高い分留物(ガソリン)は、使い道がないとして捨てられていた
ガソリンが使えるようになったのは、内燃機関の燃料として理想的だとわかってからのことである
現代文明の燃料であるガソリンもやはり、最初は使い道のない発明として登場したのである”


確かに発明にはこのような側面があると思います
時代、タイミングというものが重要です

ある種、芸術家も当てはまるような気がします
生きていた当時では評価されず、死後になってその画風が評価される
タイミングの大切さを感じます


p60 第3の要因:既存のものとの互換性
”信じがたいことだが、1873年に開発されたQWERTY配列は、非工学的設計の結晶なのである
このキーボードは、様々な細工を施し、タイプのスピードを上げられないようにしている
頻出度の高い文字を(右利きのタイピストに、
力の弱い左手をあえて使わせるために)キーボードの左側に集中させ、
しかも、上中下の3列に分散させている

こうした非生産的な工夫がなぜ施されたかというと、
当時のタイプライターは、隣接キーをつづけざまに打つと、キーがからまってしまったからである
そこでタイプライターの製造業者は、タイピストの指の動きを遅くしなければならなかった

しかし1932年には、技術的問題は解決され、効率的配列のキーボードが開発され、
使用者によって速度は2倍、使いやすさも95%向上する事が示された
ところが、その頃には、QWERTY配列のキーボードが社会的にすでに定着してしまっていた

そのため、過去60年以上に渡って、
キー配列を効率化したタイプライターを普及させようとする運動は、
何億人ものタイピストや、タイプ教師、
タイプライターやコンピュータのセールスマンや製造業者によって粉砕されてきている


普段何気なく打っているキーボードですが、非効率なものらしいです
ただ、非工学的と言われても他のキーボードを知らないのでピンとこない
そして、非工学的だからより効率の良い工学的なキーボードにしたいかと言ってもする気はない
新しい技術と既存の技術との衝突の例をよく表していると思います


p296
”結論を述べると、ヨーロッパ人がアフリカ大陸を植民地化出来たのは、
白人の人種主義者が考えるように、ヨーロッパ人とアフリカ人に人種的な差があったからではない
それは地理的偶然と生態的偶然のたまものにすぎない

強いて言えば、それは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の広さのちがい、
東西に長いか南北に長いかのちがい、
そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況のちがいによるものである
つまり、究極的には、ヨーロッパ人とアフリカ人は、
異なる大陸で暮らしていたので、異なる歴史をたどったということなのである


p297 エピローグ ヤリへの解答
”私ならこう答えるだろう
人類の長い歴史が大陸ごとに異なるのは、
それぞれの大陸に居住した人々が生まれつき異なっていたからではなく、
それぞれの大陸ごとに環境が異なっていからであると

つまり、更新世後期にオーストラリア先住民とユーラシア大陸の先住民が
それぞれの居住地域を入れ替えていれば、
現代のユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、
そしてオーストラリア大陸の人口の大半はオーストラリア先住民の子孫で占められているだろうし、
オーストラリア大陸ではユーラシア大陸の先住民の子孫が
少数民族になってちりぢりばらばらに暮らしているだろう

もちろん、これは仮定の話であって、実際に実験してその結果を確認することは出来ない
したがって、私の仮説は馬鹿げていて意味が無いと思う読者も居るかもしれない
しかし、歴史学者は史実を遡及的に分析する事によって、仮説を吟味する事が出来る

p302
”環境決定論という言い方には、
人間の創造性を無視するような否定的なニュアンスがあるかもしれない
人間は気候や動植物相によってプログラムされたロボットで、
すべて受動的にしか行動出来ないというニュアンスだ

しかし、それは全く見当違いである
人間に創造性がなかったら、我々は今でも、
100万年前の祖先と同じように石器で肉を切り刻み、生肉を食べているだろう

しかし、発明の才にあふれた人間はいずれの社会にもいる
そして、ある種の生活環境は、他の生活環境に比べて、原材料により恵まれていたり、
発明を活用する条件により恵まれていた
それだけのことである


p316
”取るに足りない特異な理由で一時的に誕生した特徴が、その地域に恒久的に定着してしまい、
その結果、その地域の人々がもっと大きな文化的特徴を持つようになってしまうことも起こりうる
これが可能なことは、他の科学の分野では、
最初の状態の小さな差異が時間とともに大きく変化し、
予測不能な振る舞いをすると唱える「カオス理論」が示している

こうした文化的過程は、いわば、歴史自身が手にしているワイルドカードである
そして、歴史の予測不能な側面は、このワイルドカードのなせるわざでもある

そんな訳で、最初の方にも述べた通り、
生物学的な差ではなく、環境による違いが原因です

これに関する説明を上下巻と見てきた
多くの考えさせられること、学ぶ事があった
次は「文明崩壊」も読んでみたいと思う
興味を持たれた方は是非読んでみてください^^






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ブックレビュー173冊目 マイケル・サンデル著 これからの「正義」の話をしよう

今回は、マイケル・サンデル著
「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びる為の哲学」を読んだ
読もうと思った理由は、確か人気があると紹介されていた本だなと思ったから
どのような”正義”を語るのか楽しみだった

内容紹介を引用します

内容紹介
『ハーバード白熱教室』NHK教育テレビにて放送中
(2010年4月4日~6月20日、毎週日曜18:00~19:00、全12回)!

ハーバード大学史上最多の履修生数をほこる超人気哲学講義、待望の書籍化!

推薦:宮台真司氏

1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?
金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか?
前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか――。

つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。
社会に生きるうえで私たちが直面する、
正解のない、にもかかわらず決断をせまられる問題である。

哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、
現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。
この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。

アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、
そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。
彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。

ハーバード大学史上空前の履修者数を記録しつづける、
超人気講義「Justice(正義)」をもとにした
全米ベストセラー"Justice: What's the Right Thing to Do?"、待望の邦訳。

評価は10段階中の7
”正義”というものについて、考えさせられる良い本である
この本を読む際には、自分の考える”正義”というものを念頭に読んでみてください
なので、自分の考える”正義”というものが無い人にはオススメ出来ない
”正義”の答えはこの本には書いてありません
読みながら様々な正義と向き合い、考えてください

では、引用をしつつ雑談をします

P32 暴走する路面電車の問題 要約
”あなたは路面電車の運転手である
前方を見ると、5人の作業員が線路上に立っている
電車を止めようとするが、ブレーキがきかない
このままでは、5人を轢き殺してしまう

ふと、右側を見ると待避線が目に入る
そこにも作業員はいるが、一人だけだ
路面電車を待避線に向ければ、1人の作業員は死ぬが、5人は助けられる

どうするべきだろうか?
ほとんどの人はこう言うだろう
「待避線に入れ!何の罪もない1人の人を殺すのは悲劇だが、5人殺すよりはましだ。」
5人の命を救うために1人を犠牲にするのは、正しい行為に思える

さて、もう一つの物語を考えてみよう
今度はあなたは運転士ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている
(今回は待避線はない)線路上を路面電車が走ってくる
前方には作業員が5人いる
ここでも、ブレーキはきかない
路面電車はまさに5人をはねる寸前である

その時、隣にとても太った男がいるのに気が付く
あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻む事が出来る
その男は死ぬだろう
だが、5人の作業員は助かる
(あなたは自分で飛び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)

その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか?
ほとんどの人はこう言うだろう
「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」

だれかを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、5人の命を救うためであっても、
実に恐ろしい行為のように思える。

しかし、だとすればある道徳的な難題が持ち上がることになる
最初の事例では正しいと見えた原理
5人を救うために1人を犠牲にする
が2つ目の事例では間違っているように見えるのは何故だろうか?

最初の事例に対する我々の反応が示すように、数が重要だとすれば、
つまり1人を救うより5人を救ったほうが良いとすれば、
どうしてこの原理を第2事例に当てはめ、太った男を突き落とさないのだろうか
正当な理由があるにしても、人を突き落とすのは残酷な事に思える
しかし、一人の男を路面電車ではねて殺す方が、残酷さが少ないのだろうか。

突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用することかもしれない。
何しろ、彼は事故に関わることを選んだわけではない。
ただそこに立っていたたけなのだ”


暴走する路面電車の例は、この本の有名な例である
私の見解を述べたいと思う

まず、運転手の場合ならば、1人を殺して、5人を助ける方を選ぶ
これは、多数を救うという理論よりも、自己にとっての損失の視点からである

前提として、この事故は回避する事が出来ない
1人を殺すか、5人を殺す選択肢しかない
それならば、5人を殺すという選択は自己にとっての責任が大きい

社会的な非難は5人殺した方が、1人の場合よりも強い
それに5人の場合は、遺族に対する責務も5倍である
なので、待避線に居た一人を殺した方が、5人よりも自己にとっての損失が少ない

次に傍観者の場合
私は、何もしない
1人を殺さず、そのまま5人には死んでもらう

理由は明白だ
傍観者でいる選択と橋から突き落とし殺人者となって人を救う選択
これは自己の利益の視点から考えれば良い

傍観者ならば、何の責任も問われない
次に殺人者で人を救う選択では、5人を助けた事を賞賛されるかもしれない
しかしながら、法的に考えれば、殺人罪に問われる可能性が高い
なので、自己にとっては損失が大きい事である




次に「アフガニスタンのヤギ飼いの例」を紹介する

p36 アフガニスタンのヤギ飼い 要約
”2005年6月、アフガニスタンでの出来事
マーカス・ラトレル二等兵は、ネイビーシールズのほかのメンバー3人とともに、
パキスタン国境近くから秘密の偵察に出発した
偵察中に100頭ほどのヤギを釣れた二人の農夫と14歳ぐらいの少年に出くわした
彼らは武器を持っていないようだ
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るように命じた

どうするべきか話し合った
もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった
米兵たちはロープを持っていない事に気がついた
これでは男たちを縛り上げ、時間を稼ぐ事は出来ない
選択肢は、男たちを殺すか解放するかのどちらしかなかった

話し合いは続く
結局、投票の末彼らを解放する事にした

そして、1時間30分後
彼らはタリバンに包囲されているのに気が付く
激しい戦闘の末、ラトレルを除く3名の戦友が死亡
救助に向かったヘリコプターが撃墜され、16名の兵士が命を落とした

彼の下した選択は本当に正しかったのだろうか?”


もし私がこの立場になったなら、そのヤギ飼いを殺す選択はしないだろう
それで後になって酷い目に遭うだろう

確かに合理的に考えて、ヤギ飼いを殺した方が任務は安全に遂行する事が出来る
ただ、民間人を殺すというのは気が引ける・・
なので、殺さずに解放してもタリバンに報告が行かないという未来に賭けた

そして、それは失敗に終わり多くの人を死なせた
彼は結果がこのようになったから後悔をしている
あの時殺していれば・・

だがそれは、結果論である
後悔をしたところで、過去は変わらない
このような選択の際には、どんな結果があろうとも、それを受け入れる心構えが必要だ

また、もしもの話になるが、仮に羊飼いを殺したとしよう
すると、村では羊飼いが帰ってこない事を不審に思う
こうして、羊飼いの捜索が始まり、米兵は発見される
この時、米兵は羊飼いを殺した事で、村人から反感を買っている

タリバンにも報告され、攻撃が行われる
そして、今回の話の主人公が村へ逃げ延びたとしても、
村人に匿ってもらえず、タリバンの前に連れて行かれ処刑される事になったのかもしれない

殺すという選択には、このような可能性もあった
なので、殺すことが本当に正解だったのかは分からない
どちらにしろこのような決断には、覚悟を持って望むべきだ
そして、その結果を受け入れ、その選択に責任をもたねばならない





P49
”ベンザムはこう書いている。
「ある人が効用の原理に戦いを挑もうとするとき、
その人は気づかない内に、戦おうとする原理そのものから戦う理由を導きだしているのだ。」

道徳についてのあらゆる論争は、正しく理解すれば、
快楽の最大化と苦痛の最小化という功利主義原理の適用方法をめぐる対立であり、
原理そのものをめぐる対立ではない。

人間は地球を動かせるだろうか?」とベンサムは問う
動かせる。だが初めに足場にする別の地球を見つけなればならない。
そしてベンザムによれば、
道徳をめぐる議論の唯一の足場、唯一の前提、唯一の出発点は効用の原理なのである”


確かにこの功利主義的な考えで正義を考える事が出来る
最大の利益を最小の犠牲で
私はこの利益の基準は、普遍的なものではなく、個人によって変わると考える

ちなみに私にとっての足場は、善の一元論的な考えだ
悪とされる事もそれを行うものは、それを善として行なっている
行為の選択は、常に良いと思われるものを選択する
これらの考えは以前述べたカテゴリ「自己流哲学」を参考にして頂きたい

そして、普遍的な正義というものはなく、
正義についての考えは各自によって異なる
だからこそ、暴走列車の例など自己の利益、損失の視点で述べている

結局、正義とは自己の経験(学習)に基づく、善いとされる行為である
この正義は後天的に学ぶものが殆どである
生きていくために、社会に適応するために人は様々な事を経験(学習)する

言わば、その社会に適した常識、良識を学ぶ
そして、その常識、良識を破ることは悪であると教えられる
この道徳教育の賜物が、悪とされる事を為した時の罪悪感である

私の立場では、悪とされる行為の選択も、自己においては善の選択である
そこに負い目、罪悪感を感じる必要はない
と言ったところで、この道徳教育というものの力は強い
症例にもあったが、良心の呵責で病に陥る人は多い

このように私は、正義とは各自の視点に基づくものだと考える
だからこそ、自己の利益、損失を視点に例に対して答えた





p214 ミルトン・フリードマン著「選択の自由」より
”フリードマンは平等主義者の反論から自由競争主義の原理を擁護するために、
ある驚くべき譲歩をした
裕福な家庭で育ち、エリート学校に通った者は、
恵まれない境遇の人間よりも不当に優位な立場にある事を認めたのだ
努力によって勝ち取ったのではなく、生まれながらに優れた才能を持っている者も、
そうでない者より不当に優位な立場にあるとフリードマンは言う
しかしロールズと異なり、フリードマンはこの不公平さを是正するのではなく、
この差を受け入れ、そこから利益を得るべきだと主張した


人生は公平ではない
自然がもたらした結果を政府が修正出来ると信じたい気持ちもわかる
しかし嘆かわしい不公平さから、我々がどれほどの利益を得ているかに気付くことも大切だ
モハメド・アリが偉大なボクサーになるためのスキルをもって生まれたのは・・(中略)
公平ではない・・・(中略)彼が一晩に何百万ドルもの大金を稼ぐのも、確かに不公平だ

だが平等という曖昧な理想を実現するために、
モハメド・アリは貧しい港湾労働者が単純労働によって
一日で稼ぐよりも多くを一晩の試合から得てはならないと定めることも、
アリの試合を楽しんだ観客にとっては、さらに不公平ということになりはしないだろうか”

人は誰一人として同じではない
過去に何度も述べているが、その個人差というものが人としての尊厳である
間違った平等主義は、その個人差、人としての尊厳を侵害している

そして、理念としては公平であるが、実際は公平ではない
個人差という人としての尊厳があるので、同じという公平は成り立たない
今回の例のボクサーアリのように、同じな訳がない

確かに自分にはない才能を持っている人を見ると、不公平だと感じる事もある
だからと言って、それを是正するという事は、相手の尊厳を侵害する事である
この不公平を是正しようとしている人がやろうとしていることは、2通りの例で説明できる

1つ目は、お菓子を持っている人を見て、
「ずるい、僕にもお菓子が欲しい」
と親(社会)におねだりをして、公平にしようとする

2つ目は、お菓子を持っている人を見て、
「僕がお菓子を食べていないのに、ずるい」
と言って、相手にお菓子を放棄させて公平にしようとする

ようは、不公平だと文句を言うのは、子供じみていると言う事である
文句を垂れるだけでなく、その不満を糧に行動をすればよいものを
すると、今度は不公平だと言われる側になるかもしれないw





p286 アラスデア・マッキンタイア
”主意主義者的な見方に代わる考え方として、マッキンタイアは物語的な考え方を提唱する
人間は物語る存在だ
我々は物語の探求として人生を生きる
「「私はどうすればよいか?」という問いに答えられるのは、
それに先立つ「私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?
という問いに答えられる場合だけだ

これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びていると、
マッキンタイアは述べる
物語には外的な権威に押し付けられた確固たる目的や目標があるという意味ではない
目的論と予測不能性が共存しているのだ

人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ
分かれ道に差しかかれば、
どちらの道が自分の人生全体と自分の関心ごとにとって意味があるか見極めようとする
道徳的熟考とは、みずからの意志を実現することではなく、みずからの人生の物語を解釈する事だ
そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意志が支配する行為ではない


私は単なる個人としては、善の追求も美徳の実行も出来ない
私が自分の人生の物語を理解できるのは、自分が登場する物語を受け入れるときだけである
マッキンタイアにとって(アリストテレスと同様に)、
道徳的省察の物語的あるいは目的論的側面は、成員の立場と帰属に結び付いている

”我々は皆、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する
私はある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である
私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や、業界の一員だ
私はこの部族、あの民族、その国民に属する
したがって、私にとって善いことはそうした役割を生きる人にとっての善であるはずだ
そのようなものとして、私は自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、
自分の国家の過去からさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる
それらは私の人生に与えれたものであり、私の道徳的出発点となる
それが私自身の人生に道徳的特性を与えている部分もある”


彼の考えに私の正義観はやや近いが、少しずれている(下線参照)
この成員の立場の引用を続けると、


p288
”マッキンタイアがさらなる例として挙げたのは
「1945年以降に生まれたのだから、ナチスがユダヤ人にしたことと、
自分と同時代のユダヤ人とのあいだには道徳的関連性がないと信じる若いドイツ人」だ
マッキンタイアはこの姿勢に道徳的な浅薄さを見て取る
この姿勢は、「自己は社会的・歴史的役割や立場から切り離せる」という誤った前提に立っている

”自己についての物語的見解との対照ははっきりしている
私の人生の物語はつねに、
私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれているからだ
私は過去を持って生まれる
だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、
自分の現在の関係を歪めることだ”


マッキンタイアによる人格の物語的な考え方は、
自由に選択できる負荷なき自己として人格を見る主意主義的な考え方と好対照をなす”


私は、彼が誤った前提とした「自己は社会的・歴史的役割の立場」から切り離せると考える
確かにその民族に生まれた事は、その過去を背負うというのも一理ある
だが、過去は過去である
何故そのことで、現在の自己を縛る必要がある
そんなにも道徳の鎖、罪悪感に苛まれたいのか?

ある種の民族的なアイデンティティを自己のアイデンティティとするならば、それも必要だろう
だが、ナショナリズムに走りそうなアイデンティティは私は望まない
それに自己は自己である
自己の正義に従い、私は負荷なき自己を提唱する


そんな訳で、雑談でした
正義というものを改めて考える良い本でした
結局、私の正義観は変わりません
普遍的な正義はなく、自己の視点に基づく正義がある
そして、この正義は自己の善(利益)の視点に基づく
だからこそ、状況においての正義の使い分けが必要である

たまには正義というものを考えるのも悪くないです
興味を持たれた方は読んでみてください^^





ブックレビュー172冊目 北樹出版 行動科学入門

今回は、「北樹出版 行動科学入門」を読んだ
読もうと思った理由は、行動主義的な考えの補強をする為
評価は10段階中の5

入門の内容であったが、私にとっては既知の事ばかりであった
基礎の復習という観点で意味があったと思う

引用をしつつ雑談をしたいが、特に言う事はない
良かったら読んでみてください、という社交辞令だけである



ブックレビュー171冊目 性格心理学 新講座6 ケース研究

今回は、「性格心理学 新講座6 ケース研究」を読んだ
これでこのシリーズは終わりです
思い返せば、性格心理学というものを知ることの出来た良い本だと思います

評価は10段階中の6
では、引用をしつつ雑談をします

p3
人は見方によっては、他の多くの人々と同じである。
また別の見方によっては、他の一部の人々とよく似ている。
しかし、さらに別の見方をすると、誰とも違っている

これは文化人類学者のクラックホーンらが、かつて述べた言葉である。

この見方というもので、多くのものが変わると思います
だからこそ、私は多角的に物事を見ることを主張しています
これは、恩師の教えでもあったりしますがw

P31
ナイサーは知覚において最初に設けられた予期図式が大きい役割を演じる事を強調した。
知覚や認知は、本人の過去の経験によってつくられた
枠組やフィルターに強く影響されて形づくられ色付けられているので、
その予期図式の拘束を離脱するならば、
その程度に応じて、
環境世界も自分自身も前とは違った内容をもって意識される事になるのである。

P34
知覚における予期図式は、その人の知覚内容を左右するが、
ナイサーによれば、人には生まれながらにして個人的な差異があるので、
その予期図式は個人的に異なる。

図式はさらに経験によって発達し変化するが、
人はみな違った経験をするので、その個人的特徴も増大し、
したがって、知覚内容や認知の仕方にも個性の現れを読み取る事が出来るのである。

確かにこのような「予期図式」、
言わば先入観というものは経験、学習によって習得されていると思います
また、認知の面、心理的変数も個人差があります
このようなものの組み合わせによって、個性が形成されるのかなと考えます

p108 フランクリン・D・ルーズベルト
何ヶ月か激痛に耐え、両脚が麻痺し、背中を自分で支える力さえ失い、
二度と歩く事も両足で立つこともできないと告げられた時さえも、
彼は有名なあの台詞を口にした。

「冗談ではない。大人が子供の病気を克服出来ないなんて、馬鹿な事があるか!」(小児麻痺)

彼が内心深い絶望を感じていたか否かは、ここでは問題ではない。
とにかくルーズベルトは(やせがまんにせよ)、
戦う意志を示したのであり、<自我の強さ>を表明したのである。

以下に伝記資料の分析にもとづいて、この自我の強さの特質を考察しまとめてみる。

・彼の「自我の強さ」はナルシシズムに根ざしたものである
・開いたかまえに根ざすものである(主義)
・経験主義的気質に根ざすものである
・ユーモアセンスに根ざすものである

これは、abcのもたらす結果であり、同士にabcを強める原因でもある。
彼が激怒したのを見た人はほとんど居なかったといわれ、
逆に彼のユーモアに笑わされなかった人も、ほとんど居なかった。
このユーモアセンスこそルーズベルト的人間の自我の強さを支える武器であり技法であり、
気質としつけの統合的結果にもとづく。

私はこの「フランクリン・D・ルーズベルト」の話は初耳だった
闘病などにおいて、自我の強さというものは必要だ
これを支えたものが、ユーモアセンスというから驚きだ

確かに笑いというものは、病気に効くと聞いた事がある
彼の場合は、このユーモアセンスで前向きになり、逆境にくじけなかった
苦難でも笑える、ユーモアセンスを持つことが自我の強さなのかもしれない
ユーモアの効用というものは興味深い


・ロアルト・アムンゼンの例 南極・北極の探検家
p113
しばしば雪の高原を「極地行進の技術を学ぼうとして」縦走したりした。
一度はほとんど奇蹟的に救出されて難をのがれるほどの体験をもった。
彼は自伝に書く。

訓練というものは、目標とする実際行動よりもきびしいものであり、
またおおかたは、行動の始まるまでにその目的を果たしているものである。


p114
アムンゼンは、探検を冒険とまったく別種の行動とみなしていた。
冒険とは要するに、
賭け事のような運命に身をゆだねる態度や新しいスリルを求め、
大むこうの喝采を狙った虚栄心を、満足させるものであって
探検家にとって冒険とは彼の本来の仕事を妨げる好ましからざるものなのである」とみなした。

なるほど、探検と冒険の違いにはこのような見解があるのかと思った
また、彼の言葉は参考になった
受験を冒険ではなく、探検で臨みたいと思いますw

P137
人間の人格形成にかかわる家庭内要因には多くのものが考えられる。
間接的なものから直接的なものへの順にあげると、
まず親の職業・学歴・階層・居住の地域等が想定される。
ついで、家族構成、続いて、夫婦の人間関係があげられる。

だんだんと直接的に影響する度合の強い要因になっていくが、
両親の性格・態度がそれであり、さらに両親の子供に対する養育態度・行動へと続く。
そしてこうした親の態度・行動を子供がどう認知しているかという
親に対する子供の認知構造が子供の人格形成の決めてとなるのである。

確かに家庭環境が人格形成に影響を与える要素は大きいと思います
一般的に子供は家庭という社会で過ごす時間が長くなるので、その受ける影響は大きいのだろう

ただ、どんな育て方をすれば、どんな子が育つという公式は無いと考える
影響が大きいだけであり、その影響を受容する心理的変数は個人差がある
なので、意図した人格形成をする事は難しいと考える

P229
戸川によれば、
個性とは先行経験の固有性であって、
意味的特性の認知内容が専ら認知者の先行経験に負うところからすると、
ある人物が諸対象に認知している意味的特性を知ることでその者の個性が明らかになる。

という論理関係をもつ。

この考えは、ラッセルの見解に沿ったものであるとの由であるが、
ともあれ、諸対象に認知している意味的特性、
すなわち”外界をどう見ているか”がその者の個性をあらわすとする見解は、
広く認められているところといえよう

これも最初のほうで述べた「予期図式」に関係するものだと思う
この予期図式、認知構造を知ることが個性の理解につながると同意できる

P239
人間論的アプローチをとったジョージ・ケリーは、
心理学者としてこの個人の固有世界に関心をしめしたといえる。

ひとはだれもが科学者であり、どの個人も的確に未来を予測していくために、
経験を意味付け世界についての独自の解釈を構成していく
と彼は考えた。
こうして生み出された体系は「パーソナル・コンストラクト」(個人的構成体)とよばれる。
おそらくはひとが分かるというのは、このパーソナル・コンストラクトが分かるということであり、
適応が下手だということは他者に対する解釈が予測できないものであったということであろう。

確かにこのような作用を人は持っているのかもしれません
幼児期から始まる社会を生きるための経験、学習
これは本能的により良く生きたいとするものの表れかもしれない
なので、個性とはその個人が考えた合理性の結晶といっても良いかもしれない

以上で雑談を終わります
この性格心理学 新講座は学ぶことが多かった
そして、理解しやすいように書かれていたと思う
興味を持たれた方は図書館などで読んでみてください^^

ブックレビュー170冊目 異常心理学講座Ⅷ テストと診断

今回は異常心理学の最終巻となる8巻テストと診断を読んだ
大学の図書館では、7巻が欠品している
その為、一つ飛ぶことになるが、これを読んで異常心理学シリーズを終わりとしたい

評価は10段階中の6.5である
正直、私はテスト方法などの知識がまだ乏しい
その為、所々で理解に苦しんだ
漠然とであるがテスト、診断についての見解が広がった

興味深いと思った箇所を引用しつつ、雑談をします

p49 妥当性尺度LFK
第4.5.6尺度が谷型を作るパターンは「スカーレット・オハラⅤ」とよばれる事がある。
この得点布置は、第4、6尺度が65以上、第5尺度が35以下で、女性に多いといわれている。

このタイプの助成は敵意や怒りを率直に表出せず、
他人を怒らせ自分が攻撃されるように仕向けるといった行動をとりやすい。
依存的で愛情を強く求めているにも拘わらず
常にこうした行動をとるので
結果的には重要他者をますます遠ざけることになり欲求は満たされない。
心理学的介入の難しい例である。

スカーレット・オハラと言えば、映画「風と共に去りぬ」
これにちなんだカクテルなどを紹介したこともあるが、
私はこの映画を見たことが無いw

なので、この「スカーレット・オハラⅤ」という分類で、ヒロインの性格を知った
酷いことを言うが、面倒なヒロインだと思うw
機会があれば、見てみようと思う^^

p98 人間運動反応について 抜粋
日常生活において、他人の動きや姿勢を見る時、
人は、その他人の立場に置かれたならば感じるであろう筋肉運動感覚を体験することがある。
あるスポーツが上手になろうとして、そのスポーツの熟練家の動きをみていると、
その動きにつられて、思わず知らず、筋肉運動感覚が生ずる、
といえば、思い当たる人も多いと思われる。

要するに、ロールシャッハは、筋肉運動感覚を伴った反応の中に、
その人の内向性、創造性と同時に共感性をみようとしたのである


筋肉運動体験と共感性の関係を実験的に調べたのはウォルフである。
まず彼は、歩いている人のフィルムを見せた。
歩行者の顔その他識別の手がかりとなる特徴を簡略化したり除去したりして、
特徴的な歩き方だけを観察できるようにした。

すると100%の人が、自分自身の歩き方を認知することができ、70%の人が歩き方で友人を識別できた。
ところが、同様の実験において、自分の横顔、声、手の動きで自分を当てることができた人数は、
歩き方に比して有意に少なかったのである。

オルポートは、この結果は「自己認識過程における姿勢の共感の重要性」を示すものだと言っている。
シャハテルは
人は、自分の身体や動き方についての筋肉運動体験においてのみ、
自分自身についての、内からの、直接的、即自的な身体体験をし得る
」と言い切っている

もし、上記のシャハテルからの引用によって納得しない人がいるとすれば、
その人は、共感性とは他者へ対して用いられるものだと勘違いをしているに相違ない。
だが、本質的にいって、共感の基礎は、ウォルフの実験結果のように、自分が自分を感じることである。

いいかえれば、自分が自分と感じることができないので、他者への共感性はあり得ない。
何故なら、そこには、他者を感じ取る自分がないからである。

我が国では、自我同一性という訳語がよく使われるようになったが、
何を意味しているのか漠然としたまま世間に流布している。

しかし、自我同一性の基本には、まず自分を自分として感じることがある、
といえば、人々はある程度合点がいくと思われる。
自分を感じ、自分の存在が感覚的に確かめられてこそ、自我同一性が論じられ得るのであり、
それがあって、はじめて他者への共感が可能となるのである。
そして、シャハテルによれば、ロールシャッハ・テストでは、
人間運動反応における筋肉運動感覚が、この基本的な共感性の指標、ということになるのである。

あのロールシャッハテストは、このような意図があったのだと知った
確かに筋肉運動というものは、色々な指標になると思う
行動主義やポール・エクマンで言えば顔での嘘判別など

また以前にも紹介した事があるが、共感には「ミラーニューロン」が作用としていると思う
これによって、他者の状態を模倣体験する事で共感をしているのではと考える

P175 ソンディ・テスト
ソンディのいう衝動の理論とは、フロイトのいう生と死の衝動の概念を再検討して、
彼自身の衝動遺伝子説から構築した
四種の衝動(性、接触、発作、自我)の心的機能に関する見解である

p177
周知のように、ソンディ・テストは八種の衝動疾患者の顔写真をそれぞれ6枚、計48枚用意し、
その好嫌選択の特徴から被験者の運命可能性の意義を明らかにしようとした。
しかし、このようなテスト構造を考えるに至った契機は
衝動理論と表裏をなす運命分析理論の中にあった。

つまり、人間の運命(行動)を規制する衝動作用の特徴を
我々にもっとも分かりやすく語りかける姿は、
次の5種類の選択の仕方によって明らかになるとした

1 どんな異性を愛するか 愛の選択
2 どんな友人を好むか 友情の選択
3 どんな職業につくのか 職業の選択
4 どんな病気に掛かるのか 疾病の選択
5 どんな死に方をするのか 死に方の選択

このような5種類の我々への語りかけを、
フロイトの症状言語、ユングの象徴言語と対応させ、
ソンディは、これらをとくに選択言語といった。

いわば運命の特徴を明かすキーワードは、この「選択」にあることを洞察したのである。
しかも、もっとも客観的に検索の可能なものが衝動疾患を病むこと、
つまり疾病選択の中にある事に注目したのである。

かくてソンディは衝動理論に基づく八種の衝動疾患者の顔写真を刺激素材として、
被験者がどのような好き嫌いの選択反応を示すかによって、
被験者の衝動性質を明らかにしようとした。

こんなテストがあったのかと驚いた
しかしながら、この好き嫌いでその人の運命というものが分かるのかは疑問である
色々なテストがあるんだなと、しみじみ思います

そんな訳で、雑談は終わりです
思い返せば、この異常心理学シリーズはブログで書きづらい事が多かったw
異常と名が付くだけの事はあります
なので、色々と考えさせられ、見解が広がったシリーズです

古い本ではありますが、学ぶことが多いです
興味を持たれた方は図書館などで借りて読んでみてください^^

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