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善悪、宗教論、死生観

今回はリクエストのあった私の宗教論、死生観について述べます
また、それらを話す前置きとして善悪についての考えを説明する

私の人間観は毎度言っている通り、本質は”無分別な善”であるとしている
善悪というものは、自己世界においては善でしか無い
しかしながら、現実世界においては善悪との判断が為される

これらの善悪の判断は、”力”によって決まる
この”力”の概念はシュティルナーが述べているようなものである

前置きであるが、私は彼の著書「唯一者とその所有」を読んだことは無い
ただ、今まで読んできた本の中で紹介がされており、類推をしている
毒の強い考えであるが、惹かれるものがある

まず、自己世界において善でしか無いのは当然の事である
自己世界の所有者は、唯一者である私である
通常は自己世界には私単独の意志しか存在しない(多重人格などの場合を除く)

この意志に基づいて、私は私の身体を所有している
言わば、私の身体を所有する力を私は持っている
私の意志は私単独であり、それ故に唯一者である
他に競合するものが居ない自己世界においては、唯一者が最強である
だからこそ、唯一者の私が私の心と身体を所有する

だが、現実世界において自己の”無分別な善”に基づく選択、行動は他の干渉を受ける
善と悪の対立、それは無分別な善の観点から言えば、善と善の対立である
この時の優劣は”力”によって決まる
”勝てば官軍負ければ賊軍”とは本質を突いた格言である

例えば、ある国は常識的尺度で悪とされるような為政者がいるとする
ここでは、悪法とも呼べる法律で民衆が虐げられ、困窮している
しかしながら、為政者は圧倒的な力を持っており、民衆は従うしか無い

常識的尺度では、為政者は悪である
力によって為政者の”無分別な善”が他の善に勝利している
その国を範囲とした世界ではその行為は善である

ここで常識的尺度で悪と判断されるなら、”悪”ではないかとの指摘があるだろう
そう、常識的尺度で見れば当然の事ながら悪である!
だが、常識的尺度というものも一種の力である
その国においては、この常識は彼の”無分別な善”の前に敗れ去っている
だからこそ、力があるから彼の”無分別な善”は善と限定された現実世界では判断される
敗れた常識でものを言った所で、負け犬の遠吠えである

このように力があれば、常識すらも凌駕する
しかし、この常識というものに反するのは難しい
何故なら、常識というものは大多数の支持があって成り立っている
この為政者は常識を破るという少数派である

少数派が多数派に勝つには、それだけ”力”を維持しなければならない
だからこそ、常識、正義という多数派の考えを持った者の方が勝ち易い
”最後に正義は勝つ”という言葉も的を得ている

何故なら、”力”を維持し続ける事は難しいからだ
盛者必衰という言葉がある通り、どこかで別の善に付け入られる時もあるだろう

このように”力”によって、善悪は判断される
常識、倫理、法律というものも力の一つである
これらの規則を破った上での”無分別な善”を維持する事は難しい
だからこそ、少数派の善は多数派の善に負けやすい
それ故に”最後に正義は勝つ”と言われるのだろう

しかしながら、正義というものも流動的な概念である
その時によって正義という概念は変わる
言わば、この正義というものも”無分別な善”より生じたものである

正義の戦いというものは、イタチごっこである
”最後に正義は勝つ”と言っても、時間が続く限り最後は訪れない
正義は別の正義によって倒され、それが正義として君臨する
だが、またその正義が倒され・・・と続いて行く

以上のように、善悪というものは現実世界においては”力”によって決まる
常識、倫理、法律などの規則も大きな力である
これらを信奉する者が多いが故に、力を持つ
これらに反して悪とされるものは、それを凌駕するだけの力を維持しなくてはならない

その力が維持できなくなった時は、破綻が訪れる
だからこそ、大多数が善とするものに従う方が賢明である




善悪の前置きの次は、私の宗教論と死生観を述べます
この話題は、極力濁したりして避けていました
何故なら、思考の根本に関わるような話だからです

私としては、宗教というものを否定する気はないです
その人が選択し、それを信じるというのなら尊重します
自己の決定権は、各自が持っていますから

ここで述べるのは、私の意見です
あくまで、私個人の世界での思考です
現実世界で他の意見を否定する気は無いです

見る人は、こんな意見もあるのかとぐらいで軽く流してください
というか、あまり見ないで欲しいです
それでも読みたいという方は、このまま読んでください




私の宗教的立場は、何もない
宗教に身を置かないというのが私の選択である
だからと言って、無神論者というわけではない

神の存在については、居るかもしれないし、居ないかもしれないという中途半端である
だが、感情的には居るものとしている

まず、神というものは全知全能で最強の概念だと認識している
超越者とも言われる通り、全てを超えたものが神である
だからこそ、人間の認識すらも超えると仮定している

つまり、認識を超えたものを考えることは考える事は実質不可能だ
それ故に、”語りえぬものについては沈黙しなければならない”(ウィトゲンシュタイン)
このように語りえないものが神である、認識、思考を超えるものであるからだ
それを規定し思考を出来るように貶める事は、私としては許されざる事だと考える

私は宗教に身を置かないと言いながらも、神に関してはある意味で敬虔である
その為、神を利用したものを私は納得出来ない
当然の事ながら、それを表現はしない
文化的な行事で神を利用する事も多い
そこで波風を立てるような事は私にとって望ましくない(今回は例外)

例えば、神頼みでのお参り
このように神を頼りにするものは、許せない
まず、神が助けてくれるというものは勝手な要望である

神は最強である、その庇護を得ようと人間が頼み込む
何故、神が人間を助けてくれると期待する
人間側の一方的な都合の良い解釈に他ならない

それにこの神頼みの際に神を扱う側が金銭的な要求をするのはおかしい(お賽銭なども含む)

ここで、そんな事を言うと宗教法人の人達が生きていけないと批判があるだろう
だが、神は宗教法人が必要なのだろうか?
超越者であるならば、そんなものの力は借りる必要は無い
神を祀っていながら、神を貶めているように思えてしまう

これは神の利用である
全くもって許せない事である
神を信じるのは、一人で出来る
儀式なども必要ない、というか儀式で縛るのは不遜である

宗教というものは、自己世界において完結するものである
それを現実世界で表現をする必要は無い(ただ、文化、倫理としての側面は評価する)

極論すれば、言葉にする事も不遜である
また、神の為の行為というものも人間側の勝手な解釈である
行いすらも、不遜である
だからこそ、神の存在というものは感じるがままに受け止める
それを表現する事もなく、ただ自己の心の内に留める
こうして、自己世界において宗教は完結するのだ

また、神に祈ったとしても助けてくれるとは思わない
人間側の都合の良い解釈である
ならば、お前は危機的状況の時に祈ったりしないのか?と言われたとしよう
祈り、期待は私もする
ただ、神に期待をするのではなく、私の都合の良い未来を期待する

以上のように、私は自己世界で神を肯定している
ある意味で敬虔であるが故に、表現もせず、語りもしない
そして、現実世界で神を利用する事は許されない
超越者を現実という枠で表現をしようとする事は、制限を付け貶める事である
神ならば、全てを超越する
だからこそ、語らずに受け止めるべきである




以上が、私の宗教論でした
このように自己世界で思ってはいますが、現実世界では表現を合わせる
自己世界で真だとしても、現実世界では真とは限らない
誤解をして現実世界でも真だと思っていると面倒な事になる
これはある意味で共感覚、心の病気の因子もあると思う
自己世界は自己世界であり、現実世界とは違う
その境界が分からなくなったら本当に大変です

次に死生観を述べる
私は”死”を受け入れている
人間は死ぬ
これはとても正しい傾向のある事です

森鴎外の言葉らしいですが、
「死を怖れず、死に憧れもせず、自分の人生の下り坂を下って行く」
このような心持ちを心掛けている

死は怖れた所で、回避出来るものでもない
死を怖れ、身体の病気を探し続け治療をするような人も居る
まるで、病気にならなければ死なないと思っているのだろうか?
病気にならなくても、人は死ぬものだ

また、死に憧れる事は無い
私は”死”は無であると思っている
そして、生きるという事は、死に行く事である
生の終着は、死である

わざわざ、自殺をして無へ到達をしたいのだろうか?
この”無”というものは、何も無い、何も感じない、というか存在すらも無い状態である
自殺をする人は死が救いだと思っている事があるらしい
私は死後の世界を想定していないので、この”無”のどこが救いなのだろう?

ここで、自殺について少し述べる
心理療法の事例でもこの自殺の問題は取り上げられる
自殺というものは、現在の自己の否定である
つまり、自己を否定し、別の自己に変わりたいという欲求でもある
だからこそ、肉体的な死を本当は望んでいない
私はこのような仮説を支持している

ここで、極論も述べておく
自殺を行うのは、自己の意志だ
ならば、道具を使用したり、行為で自殺をするのは、自己の意志だけの行いでは無い
本能的に人間は生きることを続けようとする

真の自殺とは、自己の意志で心臓を止める事だ
都市伝説的な胡散臭い話だが、インドのヨガの達人は心拍をコントロール出来るらしい
それも、心臓の鼓動をほとんど止まるような状況にまで!
本気で死のうとするならば、意志だけで心臓を止めろ
これが出来ないという事は、現在の自己否定の欲求からくる自殺願望である
肉体的な死は望んでいない、誰かに相談する事をオススメする

話を戻すと、死とは無である
ここで、最後には無になるなら生きていても意味が無いとの指摘があるかもしれない
確かに無へと到達する
だが、生きていた事は無意味ではない

バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)という理論がある
存在しているから、現実世界に干渉する
一人の人間が生きるという事は、多くの人に影響を与える
世界という規模で見れば、一個の人間の存在は小さい
だが、現実世界に生きているので、些細なことかもしれないが世界にも影響を与えている
同時に私自身も多くの影響を受けている

このように生きることには意味がある
そして、死んで無となった後も痕跡、残響はしばらくは残るだろう
もっとも、死後の事は考えようも無い

無(死)よりも、生きている方が良い
何故なら、無では何も感じる事が無いからだ
確かに生きる事で、色々な苦難もあったりする
だが、真の無よりは絶対にマシである
生きていれば苦難以外の事もあるだろう
死にはそのような可能性すらも何もない
だからこそ、私は死ぬより生きていたいと思う

最後に「メメントモリ」、死を思う事を勧めます
生きているからには、死が訪れる
これは当然の事であるが、日常では目をそらしている
その為、生きることが軽視されているように感じる

死を思うことは、同時に生の大切さを認識させる事につながる
注意事項ですが、過ぎたるは及ばざるが如し
死を思い過ぎるとバランスを崩し、異常をきたす事がある
大切なのはバランスです

以上が、善悪、宗教論、死生観でした
今回は酔いの助けもあり、やや毒を残しています
個人的な見解なので、軽く流してください

また何かリクエストがあればお気軽に言ってください
こうして、考えながら書くことで、私自身の勉強になります
思っている事を文章化する事が、思考の整理を助けます
こんな感じに、私なりに頑張って書いてみようと思います^^
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肯定論

前回予告した通り私なりの”肯定論”について話したいと思います
まず、”肯定論”とはようはポジティブシンキングの事
ポジティブな考えをしている方が、健康面などにも良い影響を与えるらしい
しかしながら、行き過ぎたポジティブシンキング、希望的観測は避けるべきだ
今回述べるところでは、ポジティブと楽観的は違うものである

前置きは、このぐらいにして本題に入ろうと思う
私の哲学(信念)としては、人間の行動は全て”無分別な善”に基づくものと考えている
意識的であれ、無意識であれ、選択する行為は上記に基づく

この”無分別な善”というものは、以前も述べたが自己世界においては善である
だが、現実世界で評価されれば悪となりうるものでもある
人と人の対立の根本にあるものは”無分別な善”である
本質的には善と善の対立だ

このまま善悪や正義について述べそうな勢いなので中断する
またの機会に書きたいと思う

話を肯定論に戻すと、私の哲学として、
「生きている限り出来事は、必ず次の出来事へとつながるものだ」
だからこそ、悲観的な出来事であろうと、否定をする必要は無い
それに囚われて悲観的になってしまっては、次の出来事の対応に支障をきたす
生きている限り、出来事は連鎖する

誤解してはならないが、悲観的出来事があれば当然悲観的になる
それを無理に笑ったりして誤魔化す事を勧めているのではない
出来事に向き合い、それに対してマイナスの感情を抱くかもしれない
しかし、その出来事を受け止めるにはそれは必要な感情である

私が言いたいのは、マイナスの感情を引きずり続ける事は避けるべきだということである
起きてしまった出来事は、変わらない
過去の事実は事実である
それを引きずるのはデメリットが多い
だからこそ、起きてしまった出来事を受け止める、つまり肯定する

こうして、その出来事を肯定し、次の出来事へと備える
これは生きている限り続ける事が必要である
また、ただ肯定するだけではなく、何かしらの教訓を得るべきだ
その教訓が次の出来事の対応に関しての選択肢を広げる事になるだろう

以上が私の肯定論の本質です
あるがままに出来事を受け止める
以前述べたようにその対応は多角的に考えるべきだ
生きている限り、出来事に対する選択をしなければならない

先程の言葉を言い換えれば、
「生きている限り選択は、必ず次の選択へとつながる」
選択をするのは自己の意志である

選択によって、出来事へと介入が出来る
何もしないという選択で、出来事に流されるのも良いが
時として、自らの意志で出来事を起こそうとした方が面白いだろう

この”選択”という何気なく行なっている行為を今一度考えてみてください
また、過去は変わらないので出来事は肯定するしかありません
生きている限りは進むしかありません

歩く時に前向きと後ろ向き、どちらが歩きやすいですか?
答えは簡単ですね
人生も歩きやすい方を選択してみてください^^

管理人の夢

今回は私事ではあるが、自身の夢、目標についての備忘録として語る
現在の目標として、臨床心理士になる為に大学院進学を希望している
だが、将来の夢は”臨床心理士”という訳ではない
この点が身内にも誤解されている点である

私は紆余曲折を経て心理学に興味を持った
人を助けたいとか、そういう感情で臨床心理士を目指しているのではない
人は独りで助かるものだ
心理療法で治るのは医師のおかげではない
あくまできっかけ、クライエント自身の自己治癒能力を引き出したに過ぎない
彼は独りで治ったのだ

言わば、研究のための手段として”臨床心理士”を目指している
だから、夢というか、やりたい事が心理学の研究である
”臨床心理士”が終着駅ではない

だからこそ、臨床心理学だけに縛られるつもりはない
心理学という幅広い分野全てに興味を持っている
この分野の”ゼネラリスト”になるのが夢である
そして、研究をし、何らかの成果を挙げることが出来れば幸いである

本当に今さらの夢である
しかし、現在21歳まだ遅くはない
高校時代に思い立っていれば、もう少し楽だっただろう
だが、こうして大学に進学し、勉強を嫌っていた私が考えを変えたのも大学での経験だ
何にせよ、やりたい事が見つかったのは良かった^^

今回は身内へのブログ記事です
少し語れば、このブログは身内も見ている
ある種、こうして毎日日記を書いて交流するのは新しいかもしれないw
また、私の思い出の記録にもなっていたりします^^

次回予告ですが、
自己流哲学ネタとして、私なりの「肯定論」を述べたいと思う
ようは全ての事象に対する「ポジティブシンキング」w
当然の事ながら、詭弁がかなり含まれる考え方です

以前も述べましたが、人間の行動は”無分別な善”に基づくと考えている
自己世界に置いてはこの”無分別な善”、つまり善でしかない
だが、現実世界ではその行為の善悪が判断され、善悪二元論が生まれる
ある種、本質、起源は全て善に基づくという善の一元論である
これの延長線のようなものです

気が向いた時に書きたいと思います^^

恋と愛の違いについて考える

今回は「恋と愛の違いについて」考えたいと思います
前置きですが、私は恋愛経験が乏しい
それにこの”恋”という感情が分かっていないと思う

そんな訳で、分からないなりの仮説を良かったら見てください
そして、笑ってくださいw

まず、恋とは何だろう、私なりの定義を述べてみる
「本能に基づく感情で、基本的に異性に向けられるものである」
つまり、人間として子孫を残す為の本能に基づくものである

次に愛の定義だが
「ただ対象を大切に思うこと」
抽象的ですが、何かを大切に思うことが愛なのだと思う

これらの違いですが、
恋は基本的に異性を対象とするものである事に対し、
愛は人以外のものも、対象と設定できる全てを対象に出来る
つまり、対象となるものの範囲の広さが違う

また、恋は本能に基づく目的があり、相手の反応を求めるものである
しかし、愛は相手の反応を求めたりはしない
言わば、”大切に思う”ただそれだけで、見返りは求めない

つまり、恋に基づく行動は対象の反応を求めるものである
そして、愛に基づく行動は対象をただ大切に思うからの行動であり、
反応は求めず、その行為によって対象を大切にしたという自己満足を得る

その仮説で行くと、異常な愛も肯定していると思われるだろう
例えば、相手に対して異常に献身的で、見返りを求めず、自己満足をしている
これは、仮説を満たしているが、条件付きで否定すべきものである

この行為は、相手が迷惑をするなどの不利益を被ることがある
その場合は、これは愛としては間違っている
対象を不快にする行為は、愛ではない
だが、この異常な愛を対象が肯定した場合は、成立する
とやかく言う事は出来ず、その世界においてはそれで良いのだろう

これは、恋にも同様に言える事ではあるが、
対象を不快にさせてしまう行為は、恋でも愛でもない
言わば、これも愛の一つになるが”無分別な自己愛”である

まとめると、
「恋とは、本能に基づく感情で、基本的に異性に向けられる
 その行為は、本能に基づく目的があり、反応を求める」

「愛とは、ただ対象を大切に思う事である
 その行為は、自己満足という目的であり、
 対象の反応は求めない」

今回思いつくのは、こんな感じです
また、思うことがあったら書き足したいと思います^^

自然と規則について考える

今回は第5回目になるが、自然と規則について考えようと思う
きっかけとしては、この前読んだ「若きウェルテルの悩み」
ここで自然と規則についての見解があった
良い機会なので、この事を考えてみようと思った
多少、酔いながらの執筆なのでご了承ください^^

p18 5月26日
”無限に豊富なのは自然だけだ
 自然だけが大芸術家を作り上げるんだ
 市民社会を賞賛できるように、規則擁護論は無論可能だし、
 規則に従って人間は決して没趣味なものやまずいものをこしらえはしない
 丁度、法律や作法によって身を律する人間が、
 絶対に不愉快な仲間だったり、ひどい悪者だったりする事がないようにね
 

 しかし、その代わりに規則というものはどんなものだって、
 自然の真実な感情と真実な表現を破壊するものなんだ


p120 第二部 1772年9月4日
”この愛着、この信実、この情熱は詩的創作じゃない
 それはぼくらが無学だの粗野だのという階級の人の中に、
 極めて純粋に生きているんだ

 ぼくら教養のある人間は、
 実は教養によってそこなわれた人間なんだ


上記が、ゲーテ作「若きウェルテルの悩み」からの引用である
確かに一理ある見解だ

ただ、私の考えは少し違う
規則、すなわち常識や教養は絶対に必要である
これらが欠ける人間では、世の中と上手くやっていく事は出来ない

規則とは、言わば他の人に対するマナーである
つまり、人に対する気遣いである
だからこそ、欠けてしまっては対人関係も失敗するだろう

しかしながら、絶対に遵守をしろと言うものではない
口語において、常識(教養)は身に付けるものと表現する
身に付けるもの、つまり装飾品である

規則は表面に身に付けるものである
内面の領域は、規則が及ぶ所ではない

私が主張したい事は、規則は絶対に身に付けるべきものである
この規則は実世界との関わりにおいて、無くてはならないものである
だが、その規則に縛られる必要は無い

内面は規則が及ぶ領域ではない
事象をあるがままに(自然に)感じる事が本来は出来るはずだ

しかしながら、その内面で感じた事をそのまま表現するのは避けるべきだ
一度、身に付けた規則と照らし合わせる必要がある
そして、必要ならば表現を抑え、変更し、実世界に適した対応をする
だが、時として譲れない事がある
その時は、自己の意志に基づき、リスクを覚悟で主張をするべきである

このように、規則は表面に装い、自然を内面で育むというバランスを主張したい
そして、表現は実世界との適応を極力重視するべきである

正直、自然のままは実世界に適応が難しいと考える
私は価値観として、調和を大切にしている
これは、ある種八方美人の価値観とも言える
しかし、経験則ではあるが社会を生きる上で必要な事であると感じる

以上、自然と規則について考えるでした
ようは、規則に囚われる必要は無いという事です
身に付けるもので、内面まで侵食される必要はない
ただ、実世界に表現する時には考える事が必要である

次回は「恋と愛の違いについて」述べます
恋愛経験に乏しい私ですw
その為、愛をベースに述べる予定です^^


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