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ブックレビュー115冊目 中村雄二郎 共通感覚論

今回は中村雄二郎「共通感覚論」を読んだ
読もうと思った理由は、共感覚のような特殊知覚に興味がある
その為、この本のタイトルだけでそういう系の話かな?と想定していた
実際には共感覚はそこまで触れる事無く、
「共通感覚」という諸感覚に共通する感覚(心)、”常識”とも取れるような概念であった
なかなか読み応えのある本でした^^

内容紹介を引用します

出版社/著者からの内容紹介
〈常識〉を意味するコモン・センスという言葉は,
アリストテレス以来,五感を統合する根源的能力の〈共通感覚〉を意味していた.
この2つはどのように結びつき,関係するのだろうか.
古今の知見を縦横に駆使し,
人間や芸術に関する多くの重要な問題がコモン・センスの問題にかかわることを明らかにした
現代哲学の記念碑的著作.木村敏解説

評価は10段階中の7
この”共通感覚”という概念は面白い
色々と考えさせられる本でした

また、芸術の話題もあり、デュシャンの「泉」という作品に驚いたw
簡単に言えば、男性用の小便器を倒して、成金、のろまなどと署名しただけのものである
これを展示会場側は展示しなかった

著者が述べているが、p26
”美術の場に並べることが許しがたい場違いの仕業だと思われたからである
ということは、展示会場はもとより、
美術そのものにも、(場としての約束事)があるという事である”

確かに、この「泉」は皮肉を込めたある意味で芸術作品ではある
だが、展示会場という場を考えると、所謂ドレスコードに引っかかるのだろう
考えてみれば当然の事である
詳しくは、上記「デュシャン」のリンク先(Wikipedia)を見てみてください

また、セザンヌの芸術について知ることが出来た
”まるで盲人が書いた、風景画
絵画に触覚を取り戻した”
このような記述があり、どんなものなのかと興味を持った
確かに質感という触覚を想起させるような印象がある

そんな訳で、芸術に関する話題も楽しく読むことが出来た
では、興味深いと思った箇所の引用と雑談をします

p58 ルソー
”共通感覚と呼ばれるのは、それが全ての人間に共通な感覚だからではなく、
それが<個人の諸感覚のよく規整された使用>から生まれるからである

また、諸感覚の伝える事物のあらゆる外観を相互に結び付けることによって、
事物の本性を我々に教えてくれるからである


そしてこれは<第六感>とも呼ぶことが出来る
それは、五感に並ぶ第六のものとして特別な感官を持ったものではなく、
諸感覚の結合のうちに働く、その働きは脳のうちにのみ存するのである


p139
”メルロ=ポンティは言う、諸感覚はそれぞれの世界を持っているとはいえ、
互いに関わり合い統一されている
諸感覚は互いに交流しあっている

例えば、より強い音は色の残像を強め、音の中断はそれを揺るがせ、
低い音は青色をいっそう濃い色にする
このような共感覚的知覚は、異常な事でも例外的なことでもなくて、普通の事である
それに我々が気づかないのは、具体的な経験が科学的な知識によって蔽われているからである

およそ私の身体とは、あれこれの器官の総和ではなくて、
そのすべての働きが世界内存在の一般的活動のなかで互いに結び付けられている一つの協働系である
感覚は訳者なしに一方から他方へ翻訳されるし、観念の仲介なしに含み合う
こうして我々は、ヘルダーと共に
人間とは一個の永続的な共通感官である>と言う事が出来る”

p268
”このように(M・エンデ『モモ』より)
眼で光を見、耳で音を聞くのに対して心で感ずるものこそが時間なのだと言われる時、
心とは全人間的、全身体的な感覚とも言い換えられる
したがって、ほとんどそれは、諸感覚の統合としての共通感覚の事を言っているわけである

上記の引用は「共通感覚」に関するものです
このように共通感覚は、諸感覚の根底にあるものです
そして、諸感覚は互いに交流をしあっている
それらの統合をするものこそが、”心”である

また、共感覚の記述がありましたが、私も異常な事ではないとの意見です
共感覚は病気として分類されてはいません
ただ、誤解してはなりませんが、害になる共感覚は病気というか、
病気によって引き起こされた知覚現象であると思う

そして、この共感覚ですがその現象は個人に起こっているものである
これを悪用というか、誤解をして霊感的なものとするのは間違いである
あくまで個人のフィルターを通して見られる知覚であり、
現実世界ではそのような現象は起こっていない
ルソーが言うように”その働きは脳のうちにのみ存するのである”




p157
”したがって良識は、ここにベルクソンによって、
人間関係を司り、生活に役立つものを我々に教える一種の感覚として、
科学と本能の間に位置し、絶えず更新される真理を目指す知的活動、
生の意味を問いつつ思考と行動とを結びつける、
必ずしも生得的ではない、
公正の精神に基づく社会的判断能力として、捉えなおされている
わけである”

良識、私は”無分別な善”に基づくものだと考える
この良識は直感的な認識、無意識的なものもあると思う
私は、生得的なものであるという仮説を支持する

また、ここで言及されている”公正の精神”というものは、後天的なものだと考える
公正、更に広げて社会通念としての常識は全て後天的なものとする仮説を支持する
私の哲学では、人間の本質を”無分別な善”としている

その為、公正な精神、常識というものは”無分別な善”を制限する為のものである
多くの人々がこの常識を守るからこそ、効力を発揮する
常識が効力を持つが故に、常識という規則を受け入れる
これに反する事は、大多数の力によってデメリットを被るからである

仮に、常識という規則を守るものが減ったとする
そして、常識を守らないものが大多数となった時、効力を失う
こうなれば、利害に応じて常識を踏破する事は容易である
もっとも、それが新しい大多数の力で常識となるだろう

このように”力”が多くの影響を与えるのだと思う
この”力”というのは、シュティルナーの考えるようなものである
今後、カテゴリ「自己流哲学」にて正義に関して述べる時に援用するつもりである




p266
”そして話を聴いてやることで相手に心を開かせるというのは、
そういう場を作ることの出来る、自らが心の開かれた人、
つまりすぐれて共通感覚(五感のバランスのとれて開かれた統合)
の持ち主であるような人にして、はじめて可能なのではないだろうか

事実すでに述べたようにカントも共通感覚を以って、
他のすべての人々のことを顧慮し他者の立場に自分をおく能力であるとしている

これは、M・エンデ 『モモ』の主人公の例を用いて説明していた
また、カントの発言だが、他者に対する共感能力であると思う
確かに他者に共感をした状態ならば、その他者も話易くなるのだろう(受け入れた状態)

これを読んでいて思ったのだが、”五感のバランスがとれて開かれた統合”
つまり、河合隼雄氏が言うような”タオ”の状態とも思える
このようなバランス(事象によって異なる適切なバランス)で心を開く事が必要なのだろう

以上で、引用と雑談を終わります
興味を持たれた方は是非読んでみてください^^


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